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高次脳機能障害を負い、僕は市民活動に身を転じることになる

87,600 時間後
高次脳機能障害を負い、
僕は市⺠活動に⾝を転じることになる
高次脳機能障害を知る会
かねだ りょうた
■ はじめに
僕は、障害を負ってから 11 年間が経つ高次脳機能障害の障害者です。分かり易く重度と軽度と分けるとすれば、軽度
に分類され、現在持っている精神保健福祉手帳(障害者手帳)は 3 級です。
なぜこれを書く決心をしたのかは、僕が障害を負ってからというもの、職場や友人関係、家族関係など、それはもう書き
れないほどの問題を起こしてしまい、何で自分がこんな思いを、、、と、当事者の人であれば、おそらく何度となく思ったこと
がある問いを、多分に漏れず僕も何度も何度も思ったことがきっかけです。
現在は月日も経ち、様々な人のサポートのおかげで、何とか乗り越えて来られたような気がしています。同じように「なぜ自
分だけが、」と感じていらっしゃる当事者の方々に余計なお節介と思われてもいいので、少しでも、なんらかのお手伝いをし
たいとの思いが強くなったことが根底にある動機だと思います。
障害後の僕は、どうしていいか分からない毎日が続き、どれだけの、どんな助けが必要だったのかも不明で、助けの求め方
すら分かりませんでした。その当時、頼る人も相談する人もいなかった上に、どのように相談すればいいのかさえも分から
いほど、頭の中は常に混沌としていました。そして何を血迷ったのか、僕は特定の宗教には入っていないのですが、まずキリ
会に仏さ社で百万
くら
ん、、、)
その当時、僕は脳障害があるとの診断はされていなかったこともあり、そのように無節操に神頼みをするような状態が、2〜
4 年ほど続きました。脳の障害がありそうだとは薄っすらとは気が付いていたものの、3,4 つの総合病院の脳神経科の診
断では「問題ない」と言われ続けていました。それでも「何かおかしい︕」と諦めきれず、では心療内科ではどうか、と思い診
察を受けると、「うつ病」の一つであるとの診察を受けることになります。その診断結果と出された薬の服薬をしつつ、何か
違うぞ、と悶々と納得ができず、効果も感じられず、さらに服薬の継続も相まって、頭の中はさらに混沌としていきます。
職場においては、新しい職場に就職をしては我慢が続けられず、の繰り替えしが 5 社ほどありました。それらの会社では
期記憶の症状が原因でしっかりと覚えられず、その上、理解変容の症状で物事を間違えて覚えてしまうことが多く、病識
がなかったことも手伝って、周りの人が間違っているのか、自分が間違っているのか、根本的な基準を失ってしまい、自分
の記憶や言動一切と他人が⾏う言動すべてにおいて、何も信じられなくなっていきました。
「なんでできないの︖」「何で忘れてしまうの︖」このような指摘を何度となく受け、そして修正しようと何度挑戦しても上手
くできないことが多かったため、自分なりの対応としてすべての指示をメモに書きとり、それをまとめて都度確認をしても、時
間や場所を間違ってメモしてしまい、さらにメモしたことや修正したことも忘れてしまう、という有様でした。
自分では有効な打開策や対応策について全く⾒当もつかず、全てが未知の後遺症に毎日毎日振り回され、知らず知ら
ずのうちに、周りと沢山の摩擦を生じさせていました。そんな苦い就労現場での経験が、同じような境遇にある、またそれと
似たような状況で現在困っている方々に、現状から一歩進むための、何らかのヒントとなるようにと願いを込め、筆をとった
次第です。
■ もう一つの「はじめに」
僕が精神の障害者として生きることになった原因からお話し始めた方が、より分かり易いのではと思い、少し⻑くなりますが
その詳細についても記載しました。
1 章に詳しく後述してあることですが、この障害を負うことになった原因は、⾞と⾞の自動⾞事故に遭い、頭を強打したこと
に起因します。事故当時とその前後数週間の記憶は、全て消失して思い出せませんが、警察の報告では運転席のサイ
ドガラスを頭で突き破って気を失っていたとのことです。緊急病院に運ばれ、数日間の昏睡状態の末、意識を取り戻し
まではよかったのですが、そこからが棘の道の始まりでした。
その後の数年間、健常者として一般の企業で元気に働く 20 代の若者、という役を良くも悪くも演じ続けました。その苦い
社会人経験と、そこで悪戦苦闘しながら絞り出した対策をご紹介しつつ本編を進めています。
その中で、このような時は、こな風に対処した、というよう僕なりに実社会で効果のった経験談記入していす。
対処している障害は、「高次脳機能障害」と、片眼の「複視」症状への対処方法が主になります。また、僕が精神疾患
を持つ方を対象にした就労移⾏⽀援職業指導員として、2 年間半ほど従事した経験をもとに、半可通の誹りを恐れず
申し上げますと、広汎性発達障害や自閉スペクトラム、双極性障害の幾つかの症状と、僕が対処してきた症状の幾つか
は重なる部分も多々あるということを精神の障害を持つ方の⽀援の中で学び、上述の精神の症状に関わる方々に対し
ても、本書が副次的に何らかの参考やヒントとなる可能性も捨てきれないのでは、とも考えております。
第1章は、僕が障害を持つことになった原因等が主な内容になるため、実用面からお読みになる方は、第一章を飛ばし
2 章から読み始めて頂ければ、と思います。
3 章、第 4 章では、当事者としての視点から、なぜ市⺠活動なのかと、現在の活動についてのお話となります。
高次脳機能障害の症状は、本当に多種多様で、当事者の数だけ、その症状の組み合わせがあるので、本書はあくまで
著者である僕の場合に効果があった対処法であることを、ご留意頂ければ幸甚と存じます。
1 章 高次脳機能障害の当事者になるまで
1-1 健常者から障害者へ
僕が 26 歳の時、交通事故にて頭部と顔面を強打し、後遺症として、脳外傷である高次脳機能障害と身体的には、左
目の複視、味覚障害と三半規管のダメージにより、まっすぐ歩けない、自転⾞に乗れない、などのバランス感覚の障害等
を負いました。
現在の医療体制では、このような事故や障害を負えば、リハビリを受ける流れになる体制が少しずつ整い始めているはず
ですが、10 年以上前は高次脳機能障害の専門的な診断ができる病院が少なく、しかも交通事故の現場が内陸の山
間部で人口が少ないところだったこともあり、最寄りの緊急病院も最先端であるとはいえず、後遺症検査も診察も簡単な
ものでしかありませんでした。
交通事故後すぐ、現場近くで唯一の総合病院へ緊急入院し、数日間の昏睡状態にありました。その中で MRI 検査等
は⾏われましたが、特に異常は⾒られない、との診断結果だったため、昏睡状態から醒めた翌日には退院することになり
ました。実はこの時、高次脳機能障害の症状がすでに出ており、僕自身は、病院側や付き添いの両親に対して「特に問
題ないから大丈夫です」と明るく話していたとのことです(僕は全く覚えていない)。
「〜していたそうです」という表現が以下に多く出てきますが、それは事故当時からその前後1週間ほどの記憶一切が、全
て消えてしまったため、後から聞いた伝聞内容であることをご承知ください。このように記憶が消えてしまったことにより、10
日後に⾏われた警察との実況検分の際、「覚えていないので、おそらく、そうなのかもしれません」と、いうような曖昧な返
答しかできず、警察側の云われるままに調書作成が⾏われたことを、微かに覚えています。
後遺症が診断されなかったこと、また本人(僕)の物言いは、言葉使いもしっかりしており、とても明るい表情と雰囲気だ
ったこと、こ 2 点から医者の先生も両親も少し違和感を持ちながらも、本人(僕)の言葉を信じてしまい、翌日に病
院側から退院の許可が下りてしまいます。
1-2 記憶が一部戻る
病院に付き添っていた両親は、息子が退院後、妙に元気があり何事にもニコニコと返事をして、事故後とは思えないほど
の明るさがあったため前述のとおり、とても違和感を持っていたとのことです。
退院後の数日間は、住んでいたアパートに戻ったのですが、その間何をしていたのかは全く記憶に残っていません。そしてさ
らに数日後、事故後初めて会社に顔を出すことになります。
3 年間勤めていた会社に出社し同僚や上司と会話すると、実は僕はすでに転職先が決まっており、所属していた会社で
の業務引継ぎも終え、退職も 1 週間後に迫っており、交通事故に遭った時は有給消化中とのことを聞かされます。それ
にも驚いたのですが、事故が起こったことさえも、当時はまだぼんやりと曖昧な記憶認識だったのです。
事故後の出社で、ほぼ毎日共に働いていた上司や同僚と直接会話したことと、今まで毎日通っていた場所に身をおき
関わっていた人達との会話が大きな刺激となって、ぼんやりとしていた意識が急にシャンと形になり、そして記憶がつなが
始め、忘れていた記憶、特に人の顔と名前、そして自分が交通事故に遭い、顔や手足に怪我をしていることなど、しっかり
と意識的に認識することが、突然できるようになりました。
しかし、ちょっと気を抜くと、常に意識がぼんやりとする感覚がありました。実はその状態が意外にも心地よかったため、この
まま常にボーっとして暮らしたいなぁ、と本気で考えたくらいです(これも症状なのだと思います。。。)。今考えれば、ど
考えても異常なのですが、自分でそれに気が付き認識することは非常に困難だったのです。その後、引っ越しを伴う移
も含め、職場に別れを告げ、転職先の新しい街で働くことになります。
1-3 毎日が上司や先輩社員から怒られる日々
転職先の企業について少し経緯をお話します。事故前の健康な時に転職試験と面接を受けていたので、記憶が曖昧な
交通事故後は、転職先が関東の企業であることにも少々驚いたのですが、なぜ転職をしようとしていたのか、などの動機
も思い出すことができていませんでした。そうこうするうちに、時間の流れは通常どおり滞りなく進み、その企業での会社
生活は始まりました。
しかし、顔の目の上には大きな生々しい傷を縫った跡があり、交通事故で怪我をしたことについては、その企業にも伝えま
したが、「大変だったね」「無理せず傷が治ってからゆっくり仕事に慣れて⾏けばいいよ」という外傷の部分だけの配慮はあり
ました。そのような暖かい配慮もあり、転職直後の数日間は、快く迎えて頂いていたのですが、2 か月間ほど共に働くことで、
段々と症状が明るみに出て、周りの対応や態度も段々と変っていきました。
■ 具体的にできなかったこと
・電話対応ができない
・すぐ指示を忘れてしまう
・名前や場所を間違えてメモしてしまう
・営業先を間違えてしまう
・メモをとっているのだが、そのメモ事体が間違っている
・書類の記入ミスが多い
・文章を読むのに、やたらと時間がかかる
・近所で迷子になる
・ボーっとしている時間が多い
などなど
これは覚えている範囲ですが、まだまだ注意されるようなことが沢山あったと思います。そ当然、上司や先輩社員からは納
期のある仕事を任されるのですが、納期内に完成できないことが日常で、そのたびに怒られ、やり直しをするのですが、そ
れも間違っていることが多く、また怒られる、この繰り返しでした。
「お前大丈夫か︖」
「頼むぜ、本当に」
「終わるまで帰るなよ」
「ふざけているの︖」
という言葉を何度も言われ、今でも忘れられない私の中のプレッシャーワードとなってしまいました。
段々と会社側は僕の何かが変である、と気が付いたようで、近くの脳神経科の病院で精密検査を受けてみてはどうか、
の提案を受けました。そして僕はその提案を受入れ、診察を受けに⾏きます。MRI 検査を何度も受け、簡単なテストなど
を⾏ったのですが、MRI 上の問題はなし、心理テスト等も正常なので、まあ無理せず頑張りなさい、という診断結果と激
励を医者の先生からもらっただけで診断は終始しました。
会社側はその診断結果で安心したのかもしれません。しかし相変わらず僕の症状は改善せず、常に叱咤の中で仕事
する数か月間を過ごしました。
そして突然、朝起れなくなります。今思えばうつ病の症状だったのかもしれませんが、何とか口実を上司に説明し 2,3
休み、無理やり勤務を開始するも、そのとたん職場で朝から僕の目からは涙を溢れだし、泣きながら業務を遂⾏し、何と
かそれを周りに気が付かれないように隠して、騙し騙し働き続けました。
しかしそれも1,2 週間ほどで、限界に達してしまいました。その 1,2 週間は、毎日帰りの電⾞の踏切で、飛び込むか否
かを真剣に考えてしまっていたことを今でも覚えています。なぜそのようなことをしたのかも、あまり覚えていないのですが、後
に精神の障害を持つ職業指導員として働き、うつ病やその他疾患の方々を毎日のようにカウンセリングをしたことで、その
状態が何であったのかを知ることになりました。
そんな状態だったので、すぐに自ら辞表を書き、6 か月ほどで逃げるように退職をしました。とにかく今は休みたい、その一心
でした。その後、2 か月間ほど自宅アパートに引きこもり、ずって寝ていた気がしますが、はっきりとは覚えていないくらい意識
が混沌としていた気がします。
1-4. 家へ
引きこもりも 3 か月が超えた頃、失業保険をもらいながら、まだどこかで働ける場所があるのではないかと、就職活動を開
始します。運よく都内の企業へ入ることができたのですが、入社後に大阪⽀社へという辞令を受けます。さんざん迷いまし
たが、財政的にも苦しかったので、関⻄での新しい生活と新しい職場で働くことを受け入れました。
前職は営業職でしたが、次の企業での仕事内容は自社製品を納入した現場での修理サービスが主な仕事だったため、
細かく記憶できなくても大丈夫かもしれない、と淡い希望を抱いていましたが、仕事が始まり、その希望も儚くもろく消え去
りました。
業務はある程度ハードで、チームでの共同作業も多く、残業も当然毎日のようにあり、県外への国内出張も日常的にあ
ったので、すぐに体と心に変調をきたし、前職と同じような状態になり、8 カ月程度で退職希望を出すことになります。
もうどこにも働くところはない、と絶望感しかない状況と精神状態の中、両親と相談したところ自宅で療養することを勧めら
れ、それに応じることにしました。
自宅での日々は、毎日家事の手伝いをして、テレビを⾒て、本を読んで就寝しての繰り返しで、3,4 カ月ほどがあっとい
う間に過ぎていました。そんな時、両親の友人から小学校で外国人の子供たちに日本語や算数を教えるボランティア
動を募集している、との情報を頂き、今の自分でも役に⽴てるのなら、と実家近くの小学校に毎日ボランティアスタッフとし
て通い始めました。
外国人の子供たちは、とにかく元気でした。僕の気分など意に介さず話を進めたりするため、イライラすることも多かったの
ですが、何かすごい基本的な、本質的な人との関係というか、交流というか、うまく表現できないのですが、結果的に彼ら
子供たちから人間関係の作り方をゼロから学ぶことができ、とても勉強させてもらったのだと、今ではとても感謝をしていま
す。